とっても贅沢な状態だけれど、巨峰が大量に実りすぎて食べきれない。
去年よりかなりの房ができて、選別せずに全て実らせたということもあって、去年より甘みが弱くなっている感じだ。
まだ木の幹がそれほど太くないので、もっと房を減らしたほうが良かったのかもしれない。
ぶどう作りというより、自然にまかせた栽培なので、手間をかけるということはほとんどないけれど、房に1つ1つ傘を今年は付けた。
雨よけにしてカビによる病気にならないようにするためもある。

かなりの量の巨峰が実っているので、これはまだわずかな分となる。
しかし、これだけでもかなりある。
沢山の巨峰が食べ放題なんて、移住する前は夢のようなことだったが、今では当たり前のようになってきている。
野菜も果物も、自分で作って食べられるなんて、ほんと凄いことだと思う。
恵みに感謝するしかないけれど、全て作っているのが順調に育っているわけでもない。
今年購入したブルーベリーや、レモン、桃などの苗木を購入したけれど、枯れてしまったり全然成長していなかったりと、思うように育ってくれない。
植えて何もしていないから、多分水不足なのかもしれない。
この辺りは雨が降らないので、それが困った問題だ。
ここはあまり雨が降らない場所だけれど、干ばつで川の水が干上がっていたり、レベル5の豪雨となっていたり、日本各地で水による影響の度合いが激しい。
年々と地球の環境は世界的に悪化していくので、いままでのような生活が出来ると思っていたら大きな間違いかもしれない。
経験したことがないようなことが、普通に起こるようになり、安定した生活が一気に不安定な生活へと変わる可能性が非常に高い。
どうしたら生き延びていけるのか、それを真剣に考えていく必要な時代へと確実に向かっている。
戦争よりも自然の脅威の方が、これからはますます危険になる。
そうなると野菜作りなど出来る環境になるのか?ということになるが、全ての地域が危険ということではないと思うので、比較的安全な地域で地道に生きていれば、なんとか行きていくことは可能じゃないのかなと思う。
生きていることが良いかと思うこともあり、死んだほうが楽ということも考えられる。
でも自然死を待つのだから、生きている間は食べる必要があるのだから、社会の状況がどうなろうとも、生きていくには農作業を行っていくしかないだろう。
種を採取して、育て、食べる分と種の分を残し、また、次へと繋いでいく。
種として残す野菜は野菜の種類によって違うが、1,2本残しておけば数百〜数千個の種が採取できる。
生き延びるために残す種の量は凄いと思う。
次に育たなくても、その次に育つこともあり、種の発芽は環境を見ながら発芽しているのか?と思うぐらい考えている感じがする。
ベジタリアンは人間と同じように痛みや恐怖を感じるから動物が食べられないというけれど、植物だって生きているのだから痛みや恐怖は感じているのだろうと思う。
ただ、植物は表現が難しいだけであって、生きようとする力はとても強いのだから、生きたいという感情はあるだろう。
いずれにせよ、人間のエゴだと思う。
例えば、ライオンに襲われている小動物、頑張って走って逃げている様子を見ると、小動物を応援したくなるが、ライオンも食べなければ死んでしまう。
食うか食われるかだけれど、この仕組みを作ったのは人間ではない。
つまり、これが自然の姿であって、人間の判断は一切必要としない。
「それじゃ、お前が食われそうになったらどうするんだ」という人もいるだろうが、その質問も変な話だね。
食われないように生活しているだけだけれど、でも最近はクマに食われる人も増えてきている。
食われそうになったら逃げるだけだろうが、逃げ切れなかったら食われるだけだ。
「食われそうになったらどうする」の答えは、小動物と同じように「逃げる」だけだ。
難しい考えのようだけれど、それぞれの人の価値観であって、誰でも何かを食わなければ死ぬだけの問題、自分の食に対する価値観を、他人の押し付けるのもおかしい。
日本人はクジラを食べるが、食べない外国からすると、「クジラが可哀想、絶滅してしまう」と言われるが、そういう国は、クジラは食べないけれど、脂だけとって残りは破棄しているということを昔バンバンやっていたので、日本人は捨てる個所がないほど、全て使用しているのだから、まだ日本人の方が良いじゃないかと思ってしまう。
食べる文化は地方によってそれぞれ違うのだから、何が正しいか悪いかなんて、誰も判断できなということになる。
まぁ、話がだいぶそれたけれど、自家製のブドウを沢山食べて、文句を言う人は多分いないだろう。
フェースブックの自然農法のグループに、無農薬、無薬品でブドウが沢山できたと投稿したら、「そんなことは無理、必ず病気になる」みたいなコメントがあった。
自然農法のグループで、自然農法で作って指摘されるのは「???」だけれど、その人のプロフィールを見たら、ぶどうを作っている農家さんだったようだ。
まぁ、自分ができないから人もできないという指摘は、農業に正解はないから指摘される意味が分からない。
実際ブドウ農家でも、自然農法で栽培し販売しているところもある。
というわけで、やり方考え方はひとそれぞれ、何が良くて何が悪いのか、それぞれの考え方で良いじゃないかと思う。
人のやっていることにケチを付ける必要はまったくないし、相談しているのではないので、指摘される必要性もない。
そういえば、、
移住したての頃に、雑草を切ったり、松を切ったりしたことをSNSに発信したら、「雑草ではなく花だから切らない方がいい」とか「松は健康のすごく良いから切らないほうがいい」とか、よく指摘されたものだ。
花が咲いている場所は、畑にする場所、松の木は5本もあるから、そのうちの1本を切っただけ、こちらの環境も知らないで、指摘してくるのだから困ったものだ。
ましてや移住体験者でも畑体験者でもない。
都会に住み、理想的な思い込みだけで生活している人の指摘は、まったく役に立たない。
その土地で生活している人の環境や状況など、人それぞれなのだ。
何の話をしているのか分からなくなったけれど、ブドウが沢山収穫できたのはとっても嬉しい。
「いちから古民家」は一から作ることを行うようにしている。
自然農法の野菜は種から育て、種を採取してまた翌年種を使用する。
家具作りは無垢材の木材を使用して作り、器、箸なども竹などの自然の素材を使用して手作りを行う。
陶芸もそろそろ活動しはじめて、器作りを行おうと思う。
既製品が多い中で、あえて、いちから作る物作りは「不便を愛でる」ということであり、「手触りのある幸せ」がある。
自然と向き合い、大地で野菜を育み、自然の素材から物を作り出す、自然に感謝しながら自然を楽しむこと、それが本来の人間の生き方だなぁと最近思うようになった。

自然農法的な菌ちゃん農法で作る野菜、無農薬、化学肥料を使用せず、自然の摂理で育てた野菜達、種から育て立派な野菜にする。
自分で作った安心・安全の野菜を食す、「健康寿命」を少しでも長くして元気に生きていく、それが「いちから古民家」の願いだ。

自然の素材を使用して作る物作り、地球環境に優しく、大地に感謝する。
自然なしでは生きては行けないし、地球に住まわせていただいているという感謝の気持ちがなければダメだろう。
縄文時代のような時代が、自然にとっては一番の理想だった。
縄文時代の生活には戻れないけれど、出来るだけ自然に寄り添っていこうと思う。
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ロゴは「一から古民家」を表したもの、太い線が安定した「一から」行うことを表すのと屋根という意味もあり安心・安全をイメージしている、Kは古民家のイニシャル、Kが2つあることで2乗で広がりがあるイメージとした。
「いちから古民家|自然農法の大地の恵」の文言は、まさに文言通りで大地の恵みで感謝する意味がある。

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